東京日仏学院エスパス・イマージュにて『ヒロシマモナムール』をめぐって 第2部:上映 『ヒロシマモナムール』+シンポジウム
登壇者:草野なつか(映画監督)、港千尋(写真家、映像人類学)、斉藤綾子(映画研究者)、筒井武文(映画監督、東京芸術大学大学院教授)(敬称略) 第1部にご登壇された マリー=クリスティーヌ・ドゥ・ナヴァセルさん(チーフキュレーター)のお話も交えて。【錚々たるメンバーらしいけれど、映画業界に詳しくないのでどなたもわからなかった私💦】
あまりにも濃いシンポジウムに頭がパンパンです。頭に入れた情報が多すぎて多分たくさん溢れだからレポートムリ(笑)そもそも筆記用具忘れてメモを取らなかった私が馬鹿ですーー。
『ヒロシマ・モナムール』は、20年以上前にBMGに勤めていた知人が貸してくれた『二十四時間の情事』の邦題のビデオ(DVDがない時代)を観て、それ以来でした。衝撃を受けたことは記憶に残っていたけれど内容はかなり忘れていたわ。スクリーンで観ることが出来てよかった。
『二十四時間の情事』というタイトル(実際は36時間の物語)のせいで検閲に引っかかり輸入が難しかったようです。1959年に公開されると観客からは評価されず、映画監督たちが絶賛したようです。
アラン・レネは8月にメゾンエルメスで『人生は小説なり』を観たばかり。ジャン・ルノワールにしてもメゾンエルメスと日仏学院がリンクしているみたいに思える。
ホロコーストを題材にしたドキュメンタリー『夜と霧』で評価されたレネが原爆のドキュメンタリーを撮ってほしいと依頼された話。マルグリット・デュラスが本を書き、映画化。そのために日本にいるレネとフランスのデュラスは大量に手紙のやりとりをしていたそう。インターネットがない時代ですから。撮った写真も送っていてそれで広島にはカフェ(居酒屋のことかな)が多い=カフェのシーンを入れることに繋がったそうです。そのカメラ(ライカ)をレネに貸したのがアニエス・ヴァルダ!お友だちだったのね〜。
映画は岡田英次さんのフランス語が素晴らしかった〜(フランス語に詳しくないので耳馴染みがよいという意味で)耳で聞いて音で覚えたのでしょうね。
📌1958年、若き映画監督アラン・レネは、初の長編映画『ヒロシマ・モナムール』を撮影するために来日。エマニュエル・リヴァが撮影に入る前の一週間で撮った広島の写真(彼女が来日して最初に銀座で買ったのがカメラ <リコーフレックス>)が展示されているという写真展を観に行きたい。
日仏会館・フランス国立日本研究所主催 展示「HIROSHIMA 1958——軌跡」
HIROSHIMA 1958「6×6サイズのカメラで写されたのは、原爆投下から13年後の復興途上にあった広島の町の風景であり、人々の生活であり、そして子どもたちである。平和記念公園からほぼ川沿いに歩きながら、彼女は道すがら出会う対象を、やさしく受けとめるようにシャッターを切った。まなざしは柔らかいが、被写体をとらえる観察は驚くほど正確であり、過不足ない構図のなかに水辺の輝きや路上の空気までが写しこまれている。」(港千尋、イメージの奇跡─刊行に寄せて。本書より)
東京日仏会館、どの時間に来てもステキです。
ラムラでマグロとアボカドのポキスパゲティ
帰宅後、疲れたから甘いもの食べてからお風呂に入ろうとおもってジャイアントコーン大人のアーモンドショコラの紙をめくったら…ありがとう🥹