ほらほらコーヒーが冷めちゃってるよ 2

好きな人に伝えたいことはできる限り直接伝えます。都々逸作っています。浦和レッズと演劇と映画と音楽が大好き! 田島亮(・中嶋将人)、成河、亀田佳明、イキウメと浜田信也。演出家・藤田俊太郎を応援しています。小林賢太郎・片桐仁、ラーメンズは永遠に好き。B'z、BrandonBoyd&Incubus、JasonMraz、大橋トリオ、Eddie Redmayne

現代能楽集VI『奇ッ怪 其ノ弐』2回目★★★★★ 

 
22日に観て、http://d.hatena.ne.jp/Magnoliarida/20110822/1314028125
もう一度観たい欲を我慢できずにすぐにチケット購入。22日はI列で観たので、どこでもいいと3階にしました。3階のA列(センターブロック)は、とても見やすかったです。顔の表情もよく見えるし、俯瞰で見ることができるし、繊細な照明の効果までバッチリ楽しむことができました。S席は高いからと躊躇している方は3階いいですよ!!(それでも安くはないけれど、観る価値大有りです!!)世田谷パブリックは立ち見が安いので学生さんたちには立ち見もおすすめ。まぁ・・好き嫌いはあるけれど。
2回目で、最後までわかっているのに背筋がゾクゾク、ざわざわぐるぐる彼方に引き込まれ、面白いところは面白さが増していたように感じるほど可笑しくてプルプル。ああ、ホントに好きです・・
なのに、色々、とくに演出の面白さをうまく文章にできないのが悲しいですーーー(* ̄^ ̄*)
 
        あとでねーーーーー ofuro入って落ち着かせます。こころ。 楽しかったなぁーーーーーー。
 
(以下、29日追記)
いったい何から書けばいいのか。私はこの作品は前川さんの演出がすばらしいと思うんですよ。少し親切すぎるところもあるれど→音で注目させたいところに目線を促すとか。「彼ら」が出てくる時のひぐらしの鳴き声がけっこう大きくて、あっ来るなって探しちゃった。照明はさりげなくてよかった。でも、世田谷パブリックのような大きさでは必要かもしれません。「狭い劇場だと役者のエネルギーと勢いでもっていける」と萬斎さん。それに、狭い劇場だと演出家や演劇ファンや出演者の知人?が多くなるので、そうじゃない初めて観るような人など多くのひとに楽しんでもらえるように集中をもっていく演出がキャパが大きな劇場には必要なんですね。
そうしたものを100%楽しませてくれるのは、多分演出家が望んだ以上のものを匠に演じ、四角いものをいったん崩して角を丸くして魅せてくれる俳優さんたち。そこには職人のような経験や人と為りもあってこそだと思うのです。その物語に欠かせない人たち。とくに仲村トオルさんの存在は大きいな。池田成志さん・小松和重さんおもしろコンビ。そして山内圭哉さんの最初と最後の変化(私たちと近い)。まわりを固める方々も実力派。
作品については、3/11以降、作り手も受けても、この作品に限らずどういうものを観ても震災を意識せずにはいられないんだと思います。あきらかに私も3/11以前とは違いますから。突然奪われた命、そこにありこれからも続くはずだった日常、残されたものの悲しみと負い目。どうしても震災とリンクしちゃうけれど、死って多くは突然。父に会いたくなりました。「相変わらずフラフラしているな」と笑われそうだけど・・話がしたいです。
 
『ある日、集落の神社に、神主の家族である矢口(山内圭哉)が訪れる。矢口はそこで、杜に住み着く山田(仲村トオル)という男に出会う。そこに村の再開発を計画する業者の橋本(池田成志)と、その為の調査を請け負った地質学者の曽我(小松和重)が現れる。山田も橋本も、かつてのの神主である矢口の父親を知っていた。ガスの流れに足止めされた三人に、山田は物語を語り始める。社の周りには、口を利かない浮浪者の様な者がうろついていた。彼らは自らの詩を自覚できない亡霊ではないかと、山田は話す。矢口が故郷に戻ってきたのは、最近父親の霊を見るからで、その意味を知りたがっていた。その矢口は神主を継がず、東京で好きな事をしながら暮らしていた。亡霊のうろつく廃墟と化した故郷を前に、矢口は山田の語る物語を聞きながら自分のすべきことを考える。』パンフレットより
 
現実と夢幻の交錯。前半の山田が語る3つの夢幻の物語(劇中劇として)。その場にいる登場人物が物語の人となり、また戻り、また他の登場人物が物語の人になるのです(山田や矢口も加わり)がすっと自然で・・ほんと見事です。なかでも2つめの物語が興味深いものでした。霊になって男のそばをうろつく男(霊として見える)は、実はまだ生きている人間で(生死を彷徨っている→生霊?)、男はその男に直接危害を与えたわけじゃなく、危害を与えられているところを目撃したというもの。「目、合いましたね」とその生霊は言うんです。→きっと心で聞こえるのね。→「霊は罪悪感につけこむ」ということらしいです。ほんとうかどうかはわかりませんが、おもしろいなと思いました。
最後に語られる物語は、地震による地下からの硫化水素ガスの噴出による災害で廃墟となったその山間の集落で、祭りの準備に盛り上がる神主(仲村トオル)と村人たちの話です。村人たちが祭りの準備をする動作が、開演直前からうろついている亡霊たちの動作だったことに気づきハッとします。
祭りにしたのは「ちゃんと終わらせたかった。次に進むために」と前川さんは話していました。祭り(祀り)には大地に対する祈りの意味があるから。ちゃんと終わらせれば、いつかまたその場所にひとが戻ってくるかもしれないから。
そして「負い目」。それは祭りで伝えることしかできないものだということ。「平家を皆殺しにして、今がある」ことはもう実感できないけれど、今生きている下には歴史があり、その歴史を生きたひとたちは当然みんな死んでいる→その人たちに対する負い目がある。「たくさんの屍の上に立っている」という負い目は大事なことだと話していました。劇中にもそれに似た台詞がありました。
神主に世話になっていたという山田・・という人物は謎のままですが、矢口の父(神主)はそこで起きたことを息子に伝えたかったんだと思います。そこにあった故郷、そこで生きたひとたち、生まれてくる命もあったことも伝えたかったんだと思います。最後の瞬間でちゃんと伝わりましたね、息子に。鎮魂の思いが浮かび上がった瞬間、「そのとき」(灯りが落ちます)がきました。*物語(劇中劇)の神主を演じるのは山田。
能:http://ja.wikipedia.org/wiki/