ほらほらコーヒーが冷めちゃってるよ 2

好きな人に伝えたいことはできる限り直接伝えます。都々逸作っています。浦和レッズと演劇と映画と音楽が大好き! 田島亮(・中嶋将人)、成河、亀田佳明、イキウメと浜田信也。演出家・藤田俊太郎を応援しています。小林賢太郎・片桐仁、ラーメンズは永遠に好き。B'z、BrandonBoyd&Incubus、JasonMraz、大橋トリオ、Eddie Redmayne

蜷川さんの告別式へ 


お昼休みを2時間もらい、今日も蜷川さんのところに行ってご焼香をしてきました。出棺までいられなかったので友だちに心とハンカチをあずけ(さちさん、心を届けてくれてありがとう)斎場を後に。もっといたかったけれど、やることやれという事かなと。お昼頃流れていたのはLibera(リベラ)かなぁ(ソプラノで歌っていたと聞いたので)。出棺の前はシガーロスのVakaが流れていたそうです。出棺のお見送りの時に流れていたのはLiberaが歌うパッヘルベルCanon(カノン)かな。蜷川さんのエンディングらしい演出ですね。
この曲を初めて聞いたのは『唐版 滝の白糸』で、終了後劇場に電話して曲名を教えてもらい、友人たちに回覧したのが最初の思い出です。
 
蜷川幸雄さん告別式 別れを惜しむ」http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160516/k10010522791000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_001

蜷川さん演出作品、何本×何回観たかなぁ。毎回ワクワクドキドキしてました。4時間の立ち見をできたのも蜷川さんの舞台だけです。2000年シアターコクーンであった『唐版 滝の白糸』には、チケットない日は当日券を買い、ほぼ毎日通っていました(笑)好きすぎて完全におかしくなっていたわ。まるで蜷川さんから魔法をかけらたかのように。
 
“世界のニナガワ”である巨匠は、「蜷川さ〜ん」なんて駆け寄っていけるくらいファンに優しい方でした。でも「おれのファンはおばさんばっかだな」と憎まれ口たたかれていましたが。昨年の『ヴェローナ〜』の時、友だちと二人で車椅子の蜷川さんに走りよっていったら「今日は遊ばないよ」って言われたり。でも、その憎まれ口がないと心配したものです。今日も友人たちとそんなニーナ話をしてきました。これからもたくさんニーナの話をしようねって。
「きっと、俺の噂話してんじゃねーよって照れながら悪態をつくね😍」って友だち。声聞こえるようだわ。
 
藤原竜也くんの『身毒丸』から約19年(竜也くんが蜷川さんに出会わせてくれたのね)。素晴らしい作品の数々、蜷川さんとそれを作り上げた素晴らしい俳優さんたち、そこで知り合った友人たちはかけがえのない財産です。たくさんの景色を見せていただきました。シェイクスピアも大好きになりました。本当にありがとうございました。蜷川さんに一千回のありがとうを。蜷川さんに出会わせてくれた竜也くんにも一千回のありがとうを。
 
さっき竜っちゃんの弔辞を聞いたら、また涙が出ちゃったよ。いい弔辞だったね。
 
竜也くん「『その涙は嘘っぱちだよ』と怒られそうですけど。短く言ったら長く言えと怒られ、長くしゃべろうとすれば、つまらないから短くしろって怒られそうですけど。まさか蜷川さん、今日僕はここに立つことになろうとは、自分は想像すらしてませんでしたよ。最後の稽古というかね。この場で。蜷川さん弔辞。」「5月11日、病室でお会いした時間が最後になってしまうとは、ごめんなさい。本当に申し訳ないです。」「先日ね、公園で1人、ハムレットの稽古の録音テープを聞き返してみましたよ。恐ろしいほどのダメ出しの数でした。瞬間にして心が折れました。『俺のダメ出しで、おまえに伝えたことはほぼ言った。今は全て分かろうとしなくてもいい。いずれ理解できる時が来るからと。そしたら少しは楽になるから。アジアの小さな島国の、ちっちゃい俳優になるなと。もっと苦しめ、泥水に顔を突っ込んで、もがいて、苦しんで、本当にどうしようもなくなったときに手をあげろ。その手を必ず俺が引っ張ってやるから』と。蜷川さん、そう言っていましたよ。」「蜷川さん、悔しいでしょう。悔しくて泣けてくるでしょう。僕らも同じです。もっと一緒にいたかったし、仕事がしたかったです。こんなにも蜷川さん、たくさんの先輩方、同志の方たちがたくさん来ていますね。蜷川さんからの直接の声はもう心の中でしか聞けませんけれども、蜷川さんの思いをここにいるみんなでしっかりと受け継いで頑張っていきたいと思います。気を抜いたら、ばかな仕事をしていたら怒ってください。」「 1997年、蜷川さん、あなたは僕を生みました。奇しくも蜷川さん、昨日は僕の誕生日でした。19年間、苦しくも、まぁほぼ憎しみでしかないんですけどね、蜷川さんに対しては。本当に最高の演劇人生をありがとうございました。蜷川さん、それじゃまた」
 
鋼太郎さん「蜷川さん、おはようございます。松戸でテレビの収録をしておりまして、3分ほど遅れましてすみみません。僕がこんなに超売れっ子俳優になったのは蜷川さんの責任です。責任とって下さい。しーんとした稽古場は嫌だけど、つまんないジョークに笑わなくていいぞと、蜷川さんがそういうお顔をしていましたね。」「蜷川さん、そちらに行ってしまわれる前に、『尺には尺を』の稽古場を訪ねて、稽古を見学させていただき、そのあと竜也と落ち合って、お見舞いに行かせていただきました。そのときの蜷川さんの姿を見た竜也の顔が忘れられません。母犬とはぐれて、雨の中で行き場を失った子犬のような顔をしていました。耳元でしゃべりかけると、苦しい息の中、何とか手を動かして応えようとしてくださいました。『テンペスト』やろうといったじゃないですか、プロスペローやらせてくれるって言ったじゃないですかって、僕が言うと、少しだけ目を開けようとしてくださいました。それは、渾身の力を振り絞るように見えました。蜷川さんはずっとずっと闘い続けてきて、まだベッドの上で闘おうとしていらっしゃいました。僕には到底、出来ないことだと思いました。」「棺にお入りになってからの蜷川さんのお顔を僕は見ていません。ベッドの上で闘う蜷川さんの顔を、目に焼き付けておきたいからです。でも、とても安らかで美しいお顔をしていると聞いています。きっと、そちらに行く前の蜷川さんの目には、平さんや、大竹さんや、りえちゃんや、そんしょうや、勝村や、阿部ちゃんや、桃李や、小出や、松本潤や、淳平や、新川や、塚本や、二反田が、きっとずっとみんなが集まってみんながずらっと並んでいて、蜷川さんのキューを、ワクワクドキドキしながら待っている。蜷川さんがいつものように少し甲高い、よく通る声で、「いいかい、いくよー、用意ドン!」って言ってる姿が、風景が蜷川さんの目に映っていたのではないでしょうか。もう少ししたらいきます。シェークスピアも混ぜてやって、一緒に芝居つくりましょう。もう少し待っていて下さい。吉田鋼太郎
 
鋼太郎さん 「吉田は亡くなる前日の11日に「竜也とお見舞いに行ったとき、そのときの蜷川さんの姿を見た竜也の顔が忘れられない」と切り出すと「まるで母犬とはぐれ、雨の中をさまよう子犬のような顔をしていました」と、後輩が受けたショックの大きさを蜷川さんに伝えた。」「もちろん吉田自身も「テンペストやると言ったじゃないですかと呼びかけると、少しだけ目を開けようとしてくれて最後の力を振り絞るように見えた。ベッドの上でも戦い続けていると思った」と、蜷川さんの気力に圧倒。「棺に入った蜷川さんの顔は見ていない。戦っている顔を焼き付けておきたい」と、蜷川さんの最後の姿を一生忘れないとした。」