この作品の何が好きかと言えば、やっぱり三好十郎。こういう作品を届けてくれる長塚圭史さんに感謝。戦争を知らない私はいつだって演劇に教えてもらっている。終わっていないということも。この物語が原発問題を抱えて生活している今に通じているということも。
♪You'd be so nice to come home to ♪〜 房代の鼻歌が耳に残っている。江口のりこさん、歌も上手いのね。1950年代の JAZZ。この『冒した者』の舞台となった時代に、進駐軍のBARとかで流行っていたんだろう。
広島の原爆投下された1945年8月、公園の砂場で泥でオダンゴこさえていたのよ。だあれも武器なんて持ってはいなかったわ。と家族と視力を失ったモモちゃんは、東京郊外の、焼け残った大きな屋敷に9人で住んでいる親戚(舟木)に引き取られ、暮らしていた。舟木は『浮標』に登場した医師・比企の延長。妻を亡くした「私」(『浮標』の久我五郎)も舟木の紹介で、この家に住んでいた。
そこに須永という演劇青年(松田龍平)が「私」(田中哲司)を訪問することからドラマが展開する。
「人を殺すのは、いけない事じゃないかね?」と「私」
「ええ、悪いです。…でも、善いことと言うのは、なんですか?」「戦争の時は、敵を殺すのは善いことなんでしょう?」「何が善くて何が悪いか、僕にはまるきり、わからないもんですから…」「いつ殺されてもいいです。…僕はもう、とうに死んでいるかも知れないんですから。」須永
須永は、住人たちの関係性をかき乱し、冒す 結果になる。 須永自身は何もしていないのに動揺が波紋していった。
武器を持たない何十万人の人間を殺した戦争を目の当たりにし、生き残ったたものは、とっくに壊れていた心を表に出せず穏やかなふりをして(まるで死にかけているかのように。心が)暮らしていた住人たちの、その抱え潜ませていた欲に執着している気持ちを吹き出しちゃったんだ。科学だったり、信仰だったり、思想だったり、お金だったり、スリルだったり。
「だって広島では、だあれも武器なんて持ってはいなかったわ。あたしは公園の砂場で泥でおダンゴこさえていたのよ。そこい、ピカドンおっことした人が悪くない?」モモ
「神だけがする資格があることを、人間が冒したんだよ!冒した!もう取り返しは附かない。それを使うことを決定し、ボタンを押した人の手は、その人たちの手は、まだ腐らないで腕に附いているのだろうか?お前は知っている!その人は誰だえ?」須永
(前を見て須永(龍平くん)がうっすら微笑んでいたのは、このとき)最後に塔に上がる前。
http://kuzukawa-shichosha.jp/story/index.html
つづきはあとで ←こう書いてそのままが多い私・・ いつも観た日に勢いで書くので、1日置くと何から書こうか迷っちゃって。なので、気になったセリフを書いておくことにしました。
9月25日に発売された『冒した者』(ハヤカワ演劇文庫)にある三好十郎のあとがきと演出ノートと、長塚圭史さんの演出ノートがおもしろいです。おもしろいというか・・。長塚さんが椅子をよくつかう理由もわかりました。←そういえば『荒野に立つ』も沢山椅子を置くところからはじまったなぁ。
『生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。』(ノルウェイの森)