ほらほらコーヒーが冷めちゃってるよ 2

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荻野洋一さんの「デカローグ」最終章寄稿

『デカローグ』についての寄稿が、演劇の劇評家の人たちとは違う視点でとらえた読み応えのある文章を書いてくだっていらして、ファンになってしまった映画評論家の荻野洋一さんの、待ちに待ったデカローグ最終プログラムについての【寄稿】です。

キネマ旬報WEBに3度目の演劇評の寄稿となりました。クシシュトフ・キェシロフスキの連作『デカローグ』全10話の舞台版が新国立劇場で上演中。針生康(はりう・しずか)による美術セットの構造を注視しながら、デカローグ7/8/9/10について論じています。

日本の精鋭演劇人が集って「デカローグ」の舞台化に挑戦、いよいよ最終章に突入!( 文=荻野洋一さん 制作=キネマ旬報社 )

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一部抜粋させてください。

「 〜 つまり、これは私たち弱き普通の人間による10の物語である。私たちのあやまちをひとつひとつ拾い上げるキェシロフスキの手つきは慈愛に満ちてはいるが、これみよがしの救済や同情はきびしく遠ざけている。

デカローグ7『ある告白に関する物語』の主人公マイカ(吉田美月喜)と厳格な母エヴァ津田真澄)の対立は、まるでスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの映画のように胸が締めつけられる。親子愛はあったはずだが、それがどこかへ行方不明となってしまっている。そしていま、この母娘の対立のはざまでマイカの6歳になる娘が、大人たちの精神状態に振り回され、無為な移動をさせられ、勝手な都合で「もう寝なさい」とむりやり寝かしつけられる。デカローグ7は十戒では「汝、盗むなかれ」。さて、ここではいったい何が盗まれているのか。——おそらく、子どもが受けるべき愛と慈しみ、そして子どもが子どもらしく生きていける時間そのものが盗まれているのだろう。

「筆者は「デカローグ」1〜4話について書いたレビュー記事、および5&6話についてのレビュー記事において、この未曾有の大型演劇プロジェクトの真の主人公は、人間たちのうごめく数棟の集合住宅である、と重ねて強調してきた。そしてそのうごめきを根底から支えるコーナーキューブ状の空間をしつらえた針生康(はりう・しずか)によるセット構造こそ、今回の連続上演の肝であり、ヨーロッパ演劇シーンでも高い評価を得てきたこの舞台美術家がエピソードごとに縦横無尽に組み替えてみせるセット構造が、人間生活の代替性、可塑性、非人称性、没個性を残酷にきわだたせているのだと強調してきた

📌「デカローグ」1〜4話の記事⇒https://www.kinejun.com/article/view/37358

📌「デカローグ」5&6話の記事⇒https://www.kinejun.com/article/view/38264

最終プログラムのうちデカローグ8『ある過去に関する物語』こそ、今回の連続上演の総括ともいうべき状況を作り出しているのではないか、と筆者は考える。集合住宅のセットは絶えず組み替えられ、あらゆる人々の喜怒哀楽を飲み込んできた。それは小宇宙と化し、社会/人間生活についての仔細なジオラマを形成してきた。」

「 ~ 映画とは異なる演劇にとっては絶対に不可能であるはずのショット/リバースショット(切り返しショット)が仮構されてしまう瞬間に、私たちは立ち会うことになるのである。
その切り返しショットとは何だったのか? そう、それは登場人物と、実際には彼らには見えていないはずの「第四の壁」たる客席とのあいだで交わされたショット/リバースショット(切り返しショット)である。おもむろに客電が薄ら暗く点灯し、女性二人は私たち客席の群衆を見上げる格好となる。今回の壮大プロジェクト「デカローグ」で起きたこととは、不可能であるはずのショット/リバースショット(切り返しショット)を仮構しつつ、舞台を見ているはずの私たち観客を登場人物が見返すことであり、私たち観客は、この巨大作品の主人公たる集合住宅の建築物そのものへと転化させられる形となったのである。このような異様な試みによって、私たちは、知らず知らずのうちに作品内へと吸収されていたわけである。物語環境への観客の吸収というこの事態に、私たちは大いに戦慄すべきである。」

 

荻野さんにはぜひ『ピローマン』も観ていただきたいです。